歌手、スティングの故郷、ニューキャッスルにある「ライブ・シアター」でインタビューライブを2023年4月20日現地時間7時30分、日本時間の4月21日午前3時半に開演で行われました。
17のグラミー賞を持つスティングが170席の劇場での記念公演に参加
ニューキャッスルといえば、彼の父親と牛乳配達をしていたところです。その地にある「ライブ・シアター」はなんと170席という小さな劇場。
いうまでもなく、チケットは完売。『LIVE ENCOUNTERS:Sting』と銘打って開催された
このイベントは、その劇場の50周年を記念したものイでした。
17のグラミー賞を持つスティングがこの会場でイベントに参加したのは、
もちろんこの故郷への貢献です。
収益はこの劇場での才能開発、子供たちや若者のプログラムに使用されるということです。
彼がこのイベントで選曲した名曲は「Dead Man’s Boots」死人のブーツ?
Dead Man’s Bootsの邦題は単純に英語をカタカナにしたもので、
「デッド・マンズ・ブーツ」となずけられています。
この曲には物語があり、父と息子が主人公。
そして、この直訳”すると “死人のブーツ” になりますが、
これはなんと、歌のなかではまだ生きている前提での父親の仕事用のブーツを意味しています。
父が成長しつつあるまだ若い息子に、
「俺の手にあるこのブーツを見ろ。もうすぐだな。お前がはけるよういなるのは。
プレゼントだ。おい、履いてみろ。いつかこのブーツで歩く姿を見せてくれれば、親孝行ってもんだ。
そして船台で働く男たちの一員になってくれれば・・」というところから歌が始まります。
物語は歌の中で展開していきますが、最後に息子はその父の語りかけに反対し、
厳しい言葉を投げかけて”僕はその道へ進まない”という意思を表し、
この歌は幕を閉じます。
この曲はTLSと略されることがよくある、スティングの劇の作品;
「The Last Ship」のために書き下ろされた楽曲の中の1曲。
しかしながら、この行間に、スティングの父と息子、
つまりスティング自身を重ねない人はスティングファンにはいないのではないでしょうか。
牛乳配達の父 と スティングの幼少期
彼の自叙伝。スティング『Broken Music:A Memoir by Sting』
(著者スティング 訳者:東本貢司 株式会社 小学館 2011年)
(英語原本:2003年出版 Dial Press hardcover edition)
この中に、スティングが7歳だった頃の話が出てきます。
彼は学校の休みや週末になると、父の牛乳配達を手伝うようになります。
そして町の炭鉱労働者の小屋を回りました。
彼の父はクリスマスを除いて一日も休まず働き、
朝の5時にたたき起こされたようです。
しかしスティングはその早朝の時間をこよなく愛したといいます。
”謎めいた神秘的な美”と夜が明ける時間を表現し、
スティングは腕いっぱいにミルク瓶を抱え、
まるで今のスティングの未来を見るかの様に、
想像の世界で世界中を旅し、
大富豪の長となり指折りの豪邸に住み資産家となり
名声を勝ち取るという未来図を頭に描いていたそうです。
しかしそこにはまだこの名曲「デッド・マンズ・ブーツ」その接点をみることはできません。
ではどこで・・・・
スティングの父親の死と最後の言葉
59歳になっていた父を訪れ、スティングは壁にかかっていた十字架を見上げます。
あやしていた父の手を見ると、自分の手とあまりにもそっくりだったことに気付きたそうです。
そして電気が走ったような激しいショックに打たれたといいます。
肌にきざまれた傷も寸分違わず曲がっていたと。
そして長い時間手を見つめていたスティング。
そして彼は子供の時に戻ったように父に話しかけ、
父の関心を引こうとしたと書かれています。
彼が7歳から頑張った牛乳配達。
配達する家も覚え、牛乳瓶も数を覚え父の様になりたい一心で大きな一度に両手に6本、
そして2本の大瓶を抱えるやり方も身に着けました。
しかし、一度も父はスティングをほめることはありませんでした。
「お父さん、みて僕ら同じ手をしてるよ。」と彼は子供の頃にもどったように語り掛けると・・
「そうだな、でもお前は俺よりも上手にその手を使ったな。」と返したそうです。
それがスティングの父が初めてスティングをほめたとき・・
そしてそれ日がスティングと父親の最後のお別れの日になりました。
そしてスティングは父親の額にキスをして、ささやきました。「お父さんは良い人だ。愛している。」・・・
牛乳配達の前は陸軍を経て、海上船舶の巨大なタービンエンジン製造工場の労働者だった父親と過ごした自宅
毎日7時になると、造船所になり響く汽笛が、労働者たちを川辺呼び寄せる合図でした。
そしてスティングが当時住んでいた自宅のそばを列をなしてオーバーオールと帽子、
仕事用のブーツをはいた何百人もの男たちが通っていったといいます。
彼の故郷のニューキャッスルにあるウォールズエンドでは炭鉱と縄工場で働く人を除き
ほぼ全員といっていいほどの住民がスワン・ハンターズ造船所で雇われていました。
その姿をスティングは毎日目にし、自分もこのようになるのだろうかと不安になり、
絶対にいやだ・・と思った、と数多くのインタビューで述べています。
それが大きな原動力となって彼を音楽の世界へのいざなう一因になったことは言うまでもありません。
そんな中、彼の父親は毎週日曜の朝には、スティングの弟と一緒に波止場に連れ出して
船を見学させていました。
そしてその船の操舵室に入り、ロープが船を波止場につなぎとめる様子をスティングの父親が
夢見がちに見ていたことを覚えているとスティングの自叙伝に書いてあります。
“Go to sea!” 「海に出ろ」とスティングの父親は彼にいつも言っていたそうです。
そして機械工だった父は、スティングが5歳の時に乳製品の販売権を譲り受けることを決心します。
弟を宿していた妻をみた夫としての決断でした。
祖父の旧友であるトミー・クローズが引退するために後継者を探していて、
スティングの父が一大決心をしたのです。
仕事用のブーツが、表現するスティングの若い頃と父への思い
彼の故郷がもとは造船所町で、今は弟が牛乳配達の会社を引き継いでいます。
しかしスティングは音楽へと進み、ロンドンへ向かいます。
そこでまた多くを経験しますが、そのロンドンでポリスの創立者でもあり、
バンドメンバーでもあるスチュワート・コープランドとも出会うことになります。
そしてかれが幼少期にみたような大成功遂げることになりました。
彼が造船所で働くことにたいして強い嫌悪感を感じ、
父親とは良い関係ではなかったこと。
様々なスティングの若い頃の実体験がこの曲を作り上げるベースとなっていると、
だれもが思うのではないでしょうか。もちろんフィクションでの物語ではありますが、
そこに父親と息子の愛が、方向が違っても、お互いに論理的な理解ができなくとも、
家族としての愛を求めあう、なにか涙をさそう感情を湧き出させてくれます。
今回スティングはギター1本でこの曲をイベントで歌いました。
スティングがニューキャッスルのタイン川近くのこのライブ・シアターで歌う曲として選んだのも納得かなあと思ってしまいした。
もう1曲、彼の人生を変えた、ロクサーヌを披露したスティングでした。
(執筆:2023年4月22日)