日本の音楽ルーツは大避(おおさけ)神社に?渡来人が日本芸能先駆者だった?!

世界最古の舞台芸術「能」の祖?

大避(おおさけ)神社は兵庫県赤穂市(あこうし)坂越(さこし)の
宝珠山(宝珠山)のふもとにある神社です。

これは重要無形民俗文化財の「坂越(さこし)の船祭り」で知られてもいます。
この神社からあるいて約5分で生島(いきしま)といって、
近くに神様のお墓がある神社でもあります。

また、この地は塩がとれることから、
「赤穂の塩」でも非常に有名な場所でもあります。
「赤穂の塩」スーパーで見たことある方もおおいかと思います。

ここに祭られている神様は、大避(おおさけ)大神ですが、
実は、秦 河勝(はた かわかつ)を意味します。

え、はた かわかつ?と言われてもですよね。
私も最初に聞いた時は?同じでした。

実は、実は、はた かわかつ(秦 河勝)さんとは・・
生きていた人らしく・・・彼は聖徳太子の側近として仕事をしていた方だそうです。

そして聖徳太子が亡くなると、蘇我氏との政変に巻き込まれてしまいます。
政治・・ですね・・。言葉が出ません。本当に取引とあるいみ戦いの多いところなのでしょうか・・
がんばってくれてはいるのだろうけれども・・

そして現在の大阪から、なんと・・当時舟でこの地、坂越(さかこし)にたどり着いたんだそうです。
新幹線もありませんからねえ・・・😅

ここでも、はた かわかつ(秦 河勝)さんは、
千種(ちくさ)川の開拓等 その地多くに貢献して80歳ちょっとで亡くなったとされています。
結構長生きですよね・・もっと長生きでもよかったのかなあ・・でも当時で80歳??

ちなみに明治時代の日本人の平均寿命は44歳です。
江戸時代から明治は文献などの不備もあり、32歳から44歳とされています。

はた かわかつ(秦 河勝)さんは、文献によると、西暦587年前後に活躍した方ですから・・
(用明天皇の丁末の乱に軍允=3等官 という地位に疲れていたそうです。)
あの中学校で学習した”飛鳥時代”の 聖徳太子と一緒に活躍した方になります。

江戸時代で32歳から44歳のなので、西暦587年で80歳までとは・・あっぱれですよね。
それだけ、良い暮らしと生命観をもっていたのでしょうか。
現代でいうと150歳を超える勢いだと想像してしまいます。

地元に貢献が大きかった秦 河勝さんは、
大避大神(おおさけおおかみ)として祭られたのが、
坂越(さかこし)の大避(大避)神社になります。

そこで・・地元に開拓をした人がなぜ舞台芸術「能」の祖?なのかですよね・・見ていきいましょう。


神様とまつられたお墓、生島が見える対岸まで、 大避(おおさけ)神社から徒歩圏内。

大避(おおさけ)神社から5分ほど下ると、一般の人が入れない、神域、生島(いきしま)が見える対岸にたどりつくことができます。

生島(いきしま)自体は、周囲が1630mの小島で、
学術的価値もあるとして1924年12月9日に国の天然記念物に指定されています。

アクセスはJP赤穂線(あこうせん)坂越(さこし)駅からですと約15分で
生島が見える対岸につきことができます。

住所は『〒678-0172 兵庫県赤穂市(あこうし)坂越(さこし)生島(生島)』そのままですね。
では、この小島全体がお墓であり、神域として人が普通は入れないという、生島の神様とは?

日本の芸能・音楽の始祖の神様のお墓。

もちろんといえばもちろんですが、大避(おおさか)大神様のお墓になります。

この神様は、前述の秦 河勝(はた の かわかつ)を指しているので、
ルーツを紐解くと、結構おもしろいことがわかってきます。

そうそう・・なんと、日本の芸能、音楽の始祖なのです。

大避(おおさけ)神社の神様は秦氏の長, 秦 河勝(はた かわかつ)

秦 河勝さん(はたうじ)一族の”長”的存在で、
聖徳太子に大きく影響をあたえた人物といわれています。

日本書記には、秦 河勝氏(はたのかわかつ)の先祖にあたる秦氏(はたうじ)は4世紀頃、
秦国から百済(もしくは新羅)から日本に渡り帰化した有力氏族”
と記載されています。

そして6世紀には実力も整い、聖徳太子という日本の政治の中枢に
なんと 秦氏(はたうじ)は入っていきます。

大避(おおさけ)神社の神様のお墓は、渡来人から始まった?

少し歴史を紐解きたいと思います。

3世紀から7世紀にかけ、多くの人が、中国、朝鮮から移住してきました。
彼らは「渡来人」と呼ばれ、当時の最先端の時刻の知識や技術を、
古代の日本に持ち込んだといわれています。

その中の有力一族が秦氏(はたうじ)というわけです。
そして、その後の日本の産業、文化、音楽、にも大きな影響、功績を残すことになりました。

非常に簡単に彼らが日本に来た理由をいうと、実は彼らの自国の状態が危険であり、
安住の地を求めたということです。いまでいうと亡命に近いでしょうか。

大避(おおさけ)神社の神様となった秦 河勝(はた かわかつ) なぜ芸能と関係が?観阿弥・世阿弥が残した風姿花伝にもでてくる?

秦 河勝(はた かわかつ)は物まねが非常にうまかったといわれています。

これは聖徳太子とのエピソードに残っています。
6世紀になると秦氏(はたうじ)の中で秦 河勝(はた かわかつ)が実力をつけ、
当時の政治の中枢であった聖徳太子の側近として働くようになりました。

ある日、聖徳太子が、側近の秦 河勝(はたかわかつ)に物まねをするように言います。
秦河勝が物まねを披露したのですが、あまりにもうまく、聖徳太子が66の面を与えました。

これが神を祭るとき奏する音楽、つまり神楽(かぐら)の始まりになったといわれています。
のちに秦 河勝(かわ かわかつ)はその芸を子孫に伝え、
神楽(かぐら)は後に「申楽(さるがく)」や「能」と呼ばれるものに発展していきます。

そして、「能」を完成させたといわれる観阿弥・世阿弥親の家伝書、風姿花伝(ふうしかでん)に「能」の元祖は「秦河勝(はたかわかつ)であり、
自分はその末裔(まつえい)である」
との記載が残っているのです!!

おおお・・・びっくりじゃないですか。わたくし、おったまげ・・😍😉ました。


雅楽師(がらくし)の東儀秀樹(とうぎ ひでき)が秦 河勝(はた かわかつ)の末裔(まつえい)?

1959年10月12日東京生まれの東儀秀樹(とうぎひでき)さんをご存じの方も多いかと思います。
東儀家は奈良時代から今日まで雅楽を世襲してきた家系で、
東儀秀樹さん自身は、幼少期を彼のお父様のお仕事の関係で、海外で過ごしました。

その際に、彼はロック、クラッシック、ジャズ等あらゆるジャンルの音楽に接しながら育ったという
異色の雅楽師です。

雅楽といえば1200年以上の歴史があり、日本の古典音楽ですね。
世界の古典音楽としても非常に高く評価されています。

この雅楽は、飛鳥時代から平安時代の初めにかけて約400年間という時を経て、
中国大陸、朝鮮半島からはいってきた音楽や舞が平安時代の日本独自の様式に整えられた
といわれています。

管楽器、弦楽器、打楽器と、吹いて、引く、弾く弦、そしてたたく太鼓という3種の編成で、基本的には西洋のオーケストラと同じです。

オーケストラは日本では明治初期に入ってきましたが、
”雅楽”の管弦に”楽”をつけて「管弦楽」としたといわれています。

そしてその雅楽にあわせて踊る舞いが舞楽(ぶがく)になります。
この雅楽の部分のスペシャリストが東儀秀樹(とうぎひでき)さんです。

彼は高校卒業後、宮内庁楽部に入り、篳篥(ひちりき)という、
雅楽で使用される吹く楽器を主に担当。

ほかに琵琶、太鼓類、歌、舞、チェロもこなすという多才ぶりは高く評価されています。
また宮中儀式や皇居での雅楽演奏会のも出演しています。

そのような彼のホームぺージになんと、
「東儀家は1300年以上も雅楽を世襲の仕事としてきた楽家で、その祖は秦 河勝である。」
記載されているのです。実際、1997年は、秦河勝(はた かわかつ)没後(伝647年)1350年を記念し、坂越(さこし)の大避(おおさけ)神社で舞を奉納しました。

重要無形民俗文化財の坂越(さこし)の船祭りって?いつ?どういうもの?

毎年10月の第2日曜日に執り行われています。
ご祭神の秦 河勝(はたかわかつ)が坂越(さこし)に渡来した伝承を再現するお祭りとして
始まったといわれています。

このお祭りは荘厳華麗、かつ勇壮な神事として全国に知られています。
木造の伝統的船が列をなして海上に並びながら生島(いきしま)へと巡行していきます。

その1隻上では獅子が舞い、もう一隻には神輿が乗ります。
そして生島まで運び、お祭りの終わり夕方頃は、
その神輿をのせまた船で本島にもどります。

この船祭りの前には大避(おおさけ)神社で、参道を神輿や獅子舞が練り歩き、
祭典が執り行われます。

大避(おおさけ)神社は主に、航海安全をつかさどるといわれています。
しかし、これがなんと、日本の音楽、芸能の始祖の神様がまつられている神社でも
あったというわけです。

びっくりでした!そして 秦 河勝様!ありがとうございます。
そして日本に、そして世界で音楽を地球にもたらす役割を果たしてらっしゃる
多くの音楽家に感謝💙。

そして大好きなスティング、ポリスにも超特大の💙を送りたいですね!

(執筆:2023年5月1日)(修正:2024年4月9日)

 



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